サイバー老人ホームー青葉台熟年物語

140.ハウツー社会

ハウツー社会
 最近カーナビというのが普及しているらしい。らしいということは我が家の車には装着していないということだが、時々装着している車に乗せてもらって拝見すると確かに便利な物ようである。だからといってすぐに飛びつくようなことはしないところが老人の一徹さというものかもしれない。かつてオートミッション車に頑迷に抵抗したように、こうしてまた時代の流れに置いてきぼりになるのかもしれない。

 もともと日本の道路には道路標識などなかったということである。なるほど昔の道路には「是より江戸へ○里」とか街道の分岐点には「ひだり中山道みぎ東海道」などの道しるべがあるだけで、今のようにどこへ行っても道路標識があるようなことはなかった。
 もちろん、当時の道路と今とは比較にならないほど複雑になり、道路標識がないと日本中が大混乱になってしまうかもしれない。

 ただ、今のように道路標識が目立つようになったのは、戦後、駐留軍が進駐してきてからである。私の子供の頃、我が家の近くの道路端に村の名前と道路名を日本字とそれよりもはるかに大きなローマ字で書かれた真新しい道路標識があっという間に立てられたことがある。

 それまでは漠然と「県道」と呼んでいたが、それで特に困ることもなかった。松尾芭蕉を挙げるまでもなく、それまでの日本人はさしたる地図もなく日本中を旅していたのである。もちろんその場合も闇雲に歩いたわけではなく、場合によっては先達という案内人がつく場合も合ったのであるが、いずれにせよ十分な予備知識は持っていたと思うのである。

 今でも山歩きの場合は、ポイント、ポイントには道路標識はあるが、基本的には地図と方向を頼りで、あっちで迷い、こっちで迷いの歩行でそれなりの楽しみはある。

 このことは単に道路標識に限らず、生活の場のあらゆる場面で同じであり、より安全に快適に生活するためにはたゆまぬ努力と工夫が必要であったはずである。かの司馬遼太郎さんが「かつて日本の文化は、いわば名人の文化であった」といっている。

 そもそも人間が生れ落ちて、人それぞれに成長するが、成長ということは生活の場における名人を目指しているものと思っている。ところが、戦後、道路標識は申すに及ばず、駅、デパートなどおよそ人が集まるところでは是でもか是でもかと、看板、標識、ポスター、放送など目に付くもの耳に入るものを総動員して、知らしめている。是を称して司馬さんは「親切文明」といっているが、このシステムの元祖はアメリカであると言う事である。

 戦後、さまざまな文明の利器が開発されたが、これによって多くの人がさしたる努力をしなくても文明の恩恵に浴することができるようになった。かつて、オートミッション車を軽蔑していた私なども、今の身体状況ではこれなくして生活が成り立たなくなったのであり、その恩恵は十分感じている。

 ただ、このことが我々にとってすべてが良いことかといえば疑問が残る。努力も工夫もしなくてもそこそこの目的が達成できるということになれば努力も工夫もしなくなるのは自明の理である。

 思えば、最近の日本では、母親の胎内にいるときから「○○の仕方」とか「○○の成功法」などの手引書(いわゆるHow to書)に晒されていることになる。確かに、文明の恩恵を公平に享受する上ではそれなりに有効なものであるかもしれない。ただ、これらは順調にことが運んだ場合は便利な代物だが、いったん手引きのルートから外れると、背景となる知識がないとどうにもならない。

 戦後、ロシアからの引揚者が「腕時計などは没収されたがロシア人は使い方を知らないから、止まってしまうと捨ててしまう」という話を聞いたことがある。ことの真偽は別にして、今の日本ではあらゆる生活用品に同じような事態が生じているのではないかと思うのである。この事についても司馬遼太郎さんは「日本は戦後、名人主義、あるいは人みな有能という考え方を放棄した」と言われている。

 また、「どの文化でも文化への参加は、名人芸を要する。しかし文明というレベルでいえば、愚図であれ利口であれ、万人が参加できるものでなければ文明にはならない」とも言われている。確かに、今では自動車の運転などというものは誰にでもできることであるが、わずか40年前では特殊技能であり、簡単な修理など自分でしたものである。

 そもそも学ぶということは、高邁な知識や技術を身につけるということではなく、生活のあらゆる場面に適応できる名人になることではないかと思っている。生活するための技術をより広く身につけた人は生活の場において快適な生活を送れる事ができると思っている。
 然るに、最近は高学歴社会といえども、教育というものを良い学校に入り、安定した職に就く安易に目的を達成できる方法ばかりに注目するようになった。その結果、個人の適性を考慮に入れない教育に失望し、落ちこぼれや、登校拒否につながっている。

 更に、適性を無視して、従来は高い道徳観や、人間性を身につけた者だけのが当るべき職業に、受験という「ハウツー技術」に長けた者が立ち入る事になり、様々な問題を引き起こしている。「成功の仕方」は教えても、失敗したときの立ち直り方は自分の努力と経験を積む以外に解決していく方法はないのである。

 物事を達成する喜びや、人間性豊な教養は、たゆまぬ努力を積み重ねることによって得られるもので、人の模倣や手順書どおりにやって得られるものではない。従ってこれからもカーナビなどのお世話には当分お世話にならず、あっちで迷い、こっちで迷いながら目的地にたどり着くようにしたいと思っている。(03・11仏法僧)